あの人がいなくなっても、朝はやってくる。
 
そして。
 
穏やかで優しい朝の光を浴びると今日も1日頑張ろう、とパワーが湧いてきて。
 
もう、自分はすっかり元気になったのだとキャンディは感じている。
 
 
「時」が、確実にあの人と自分の間を隔て、「物語」は、あの人を失ったまま続いていくのだと___。
 
 
いくつもの「もし」を考え、眠れぬ夜を過ごした日々はもう終わり、あの時の別れも、あの人を狂おしく愛した記憶も、すべて懐かしく、いとおしい思い出になっているのだとキャンディは理解している。
 
ふたりの時間は、懐かしい想い出の中にひっそりと沈んでいるのだと__。
 
 
 
それなのに____。
 
 
眠りに誘われる時。
 
夜明け前の意識がおぼろげな時。
 
風の中にかすかなスミレの香りを感じた時___。
今でもふっと、
あの人を思い出してしまうのは、なぜなのだろう?とキャンディは思う。
 
 
いってしまったあの人の胸の中の香り。
その記憶が今でも胸を苦しくする。
 
 
 
バカなキャンディ。いつまでも思い出すなんて。
 
 
「もう一度いちから出直す。」
 
そんなテリィのコメントが演劇雑誌に載っていたとアルバートさんが話してくれた___。
 
 
きっと、テリィはブロードウェイで毎日一生懸命頑張っているわ。ひたむきに、そして情熱的に。
 
あのスコットランドの夏の日、熱っぽくお芝居を語るテリィのまま___。
いつまでもメソメソなんてしていられないわ。
 
テリィに負けないように、私は私の道をしっかりと歩かなくちゃ。
 
「キャンディ、いつも笑顔の『白衣の天使』でいてくれよ。」
 
傍にいなくても、テリィの声が聞こえる気がした。
 
 
 
 
シカゴは、「風の街」
 
ミシガン湖から吹き抜ける「強い風」が今日も摩天楼を駆け抜けていく。
 
イリノイ州東北部に位置するシカゴは、ポワタミ属インディアンがシカゴ川流域に住み着いたのが、その始まりだと言われている。
 
そのインディアンの言葉で「偉大」を意味する「Chicago 」
 
その偉大な風の街は、その名の通り、1871年の街を焼き付くした大火に負けず、「摩天楼の都市」として、また交易や産業の要所として、目覚ましく発展を続けていた。
 
その摩天楼の中、誇らしげにアードレー家の紋章を戴くビルの数々。
その中のひときわ目立つグリーク・リバイバル様式のアードレー家本社ビルは、鉄骨を用いた画期的な工法で建築されており、まさに「鉄鋼の覇権」を握るアードレー家の「証(あかし)」であった。
 
そんなアードレー家だが、実はシカゴでの歴史は比較的浅い。
 
スコットランドからの移民としてシカゴに移住した初代ジョージ・ウィリアム・アードレーは、交易で賑わっていたこの街で、まず投資銀行をはじめる。
 
時代を読むことに長けていた彼は、次は「鉄鋼」の時代だと先を読み、投資銀行で儲けた資金で鉱床を買収したのだった。
 
それから彼は、常に製鋼の技術の向上につとめ、採掘方法を効率化し、それをピッツバーグなどの都市へ運ぶための運搬船や鉄道、港湾施設を整備し、製鉄のコストを劇的に下げることによって、安くて質のよい鉄鋼を提供することに成功し、今日のアードレーの礎を築いたのだ。
 
そして、さらに。
 
アードレー家は、ウィリアム・アルバート・アードレーに代替わりしてからまたひとつの転換期を迎え、めざましい急成長を遂げることになる。
 
アルバートは、それまでの金融、鉄鋼業界だけでなく、その豊富な資金を惜しげもなく海運業や鉄道業など様々な企業に資金を提供し、それらをまとめて業界屈指の巨大企業として誕生させたのだ。そして、巨大企業となったその株を高値で売却し、潤沢な資金を調達すると、さらにまた他の企業の株を買い占めるという見事な実業家ぶりを発揮していた。
 
今やアードレー家は、シカゴで押しも押されぬ巨大企業のひとつに名を連ねている。
 
 
 
そして__。
 
物語の時間軸は、ブロードウェイでテリュースが、団長のロバートからスザナと公式に婚約するように言われた時から、少し巻き戻る。
 
 
エネルギッシュな初夏の日差しを浴びて賑わうシカゴ。摩天楼を一望できるアードレー家当主、ウィリアム・アルバート・アードレーの執務室は笑い声に包まれていた。
 
そこには、来客用の長椅子にアルバートと向かい合わせにならず、わざと隣に並んで座るキャンディス・ホワイト・アードレーの姿があった。
 
「なんだって、キャンディ!?マーチン先生が、診療所の名前を『アルバート記念診療所』にしようとしていただって?」
 
苦笑いするアルバート。
 
「そうなの。村のみんなは、診療所ができて、これからは1時間もかけて病院のある隣町まで行かなくてもよくなったとすごく喜んでいるわ。それを見てマーチン先生が、アルバートさんの名前を冠した診療所にしようって言い出したの。」
 
「おいおい、それだけは勘弁してくれよ、キャンディ。」
 
「わかっているわ。だから必死に止めたのよ。前と同じハッピー診療所の方が絶対にいいと、看護師のミセス・バートンを巻き込んで、合法的にに決めちゃったわけ。ま、『多数決』ともいうわね、2対1の。」
 
キャンディは、えっへんと胸を張る。
 
アルバートはキャンディの言葉に微笑み、秘書が運んできてくれた紅茶をひとくち飲む。それを見て、キャンディも自分用に入れられたココアを口にした。
いつもアルバートにはアールグレイ、キャンディには甘いココアだ。
 
「アルバートさん、改めて、本当にありがとう。アルバートさんには感謝してもしつくせないくらいだわ。」
 
アルバートが資金を出し、村に診療所を設立したのが、1ヶ月前。
 
今後はできるだけ安い診察代で、村のみんなを診察できるように、診療所の維持や管理は、村の有志がボランティアで参加することが決められ、マーチン先生と看護師のミセス・バートンへの給料、医薬品などの購入資金は、『チャリティー』と定期的に入る『ある収入』をあてることに決められた。
 
そのある収入とは__。
 
ポニーの家をはじめ、村全体でそれぞれ無理のない範囲でヤギを飼い、その乳を集め、『カヘタ』というキャラメルを作る。そして、それをシカゴのデパート、マージャル・フィールドの一角で売り、その売上げ金をポニーの家や診療所、村の公共施設に還元するというものだった。
 
これはキャンディの発案で、アルバートが彼女のアイデアを実現させた形である。
 
「やめてくれよ、キャンディ。あらたまってそんなことを言われると恥ずかしくなる。」
 
アルバートが照れて、キャンディの言葉にわざと話題をかえる。
 
「それはそうと、ミセス・バートンだっけ?いい看護師さんも見つかってよかったじゃないか。」
 
以前から、看護師がキャンディひとりだけだと、不便だからともうひとり看護師を募集していたのだが、ヨーロッパの大戦の影響が大きく、なかなか見つからなかったのだ。
 
「そうなの。ミセス・バートンって最高よ。マーチン先生ったら、私の言うことは聞かないくせに、彼女の言うことならおとなしく聞くの。ブツブツ言いながらだけど。おかしいでしょ。」
 
「それなら、キャンディがマーチン先生のアルコールを隠さなくても、ミセス・バートンに飲まないように言ってもらったらいいんじゃないのかい?」
 
「それはそうね。今度、彼女から言ってもらおうかしら。なんでもね、ミセス・バートンって、マーチン先生の亡くなられたお母様に似ているんですって。マーチン先生がぼやいていたわ。母ちゃんに叱られているようだ、って。」
 
なんとなく、似ている雰囲気のマーチン先生とミセス・バートン。
 
診療所が明るい雰囲気なのは、村のみんなもすでに気づいていて、用がなくてもなんやかんやとやってきてくれる。キャンディは、村の人たちが病気でなくても診療所に顔を見せにきてくれるのが嬉しかった。
 
「おいしいわ、ココアって、なんだかほっとできる。特に秘書のミス・ジャネットが入れてくれるホットココアが大好き。」
 
そう言っておいしそうにココアを飲むキャンディの鼻先に白い生クリームがついているのにアルバートは気がついた。それを誇示するわけではないのだが、満面の笑顔をアルバートに向けるキャンディ。
 
 
そのキャンディを見て、今度はたまらずアルバートがクスクスと笑いはじめた。
 
「何?何で笑うの?アルバートさん。」
 
キャンディは、きょとんとした目を向ける。
 
「キャンディ、僕はとらないよ。」
 
アルバートが口元に笑いを潜ませながら、いたずらっぽく宣言する。
 
「え?なんのこと?」
 
アルバートの言葉の意味がわからず、キャンディはちょっぴり困惑する。
 
すると、耐えきれずにプッと吹き出したアルバートが、長い指を自分の鼻先にトントンとあて、身振りで、「ついてるよ」の仕草。
 
キャンディはやっとそこでその意味を理解し、慌てて自分の鼻先を手のひらでこすり、クリームがついていたことに気づいたのだった。
 
鼻先にあんなに大きなクリームをつけて、本当に気付かないものかい?キャンディ。アルバートの目がそんなことを言っている。
 
「やだ、アルバートさん。私がアルバートさんにクリームをとってもらおうとわざとつけた、って思ってるのね?」
 
 
キャンディは、真っ赤になりながら大きく頬を膨らませた。
 
「違うのかい?」
 
「もう!アルバートさんの意地悪!」
 
キャンディが笑いながら隣に座るアルバートの肩を軽く叩く。
 
最初。
 
キャンディは、アルバートの人生に現れた小さな「波紋」だった。
 
それまでの、波風のおこらない、ただ静かな水面に、ぽちゃんと投げ込まれた小さな小石は、アルバートも予期せぬほどの大きな波紋として広がっていく。
 
当たり前で、決まりきったアードレー家の当主としての人生。
一族をとりまとめ、事業をさらに拡大させ、多くの従業員とその家族の生活を保証する。
その無味乾燥した自分の人生に飛び込んできた緑の瞳の小さな少女。
 
世界のどこにいても。
 
何をしていても。
 
自分はひとりではない、家族と繋がっているのだと感じる温かな、優しい気持ち。
 
彼女がいることで感じる、誰かのために生きている実感、責任感、胸の奥から誰かを愛おしく思う気持ち。
 
おてんばで、破天荒なキャンディの行動の数々をジョルジュからの報告で知り、ハラハラしたり、憤慨したり、成長を嬉しく感じたり。
 
 
 
最初は遠くからそっと見守るつもりだったのに、「運命」は僕たちを近付けて、今はこんなにすぐ近くにいる__。
 
ビジネスで行き詰まる時、情を捨て冷酷とも言える判断を下す時__。
 
彼女の存在がどれほど自分を助けてくれているか、とアルバートは思う。
 
助けられているのは、僕の方だ、キャンディ。
 
君といると幸せが倍に、悲しみが半分になるような気がする。君といると心が軽くなる__。
 
アルバートは、キャンディの大きく膨らんだ頬を見つめながら、そんなことを考えていた__。
 
 
 
 
『遅くなっちゃった。レイン先生から頼まれた刺繍糸を早く買ってこなくちゃ。それに、キャラメル売場の責任者にも会っていきたいし。』
 
『ポニーカヘタ』と名付けられたキャラメルは、シカゴで上流階級御用達のデパート、マージャル・フィールドの小さな一角を占めている。
優しい甘さのポニーカヘタは、最近、上流階級のマダムたちにじわじわと人気が出てきているのだ。
 
『責任者さんにお願いして、もっともっと売ってもらわなくちゃ。』
 
キャンディが、そんなことを考えながら、アードレー本社ビルを出て、デパートへ続く道に曲がろうとした時。
 
「スリよ、捕まえて!!」
 
女性の叫び声が響いたのと同時に、
走ってきた小さな黒人の男の子とぶつかり、キャンディは弾き飛ばされて、その場に尻もちをついた。
 
 
 
「・・・いたたっ」
 
ぶつかった男の子は、少しつんのめったものの、キャンディに構わずそのまま脱兎のごとく走り去り、それを黒ずくめの男がふたり、目の前を追いかけて行く。
 
パンパンとほこりを払い、立ち上がったキャンディは、その男たちが黒人の男の子に突進するのを見た。
「いやだー。放せー。」
 
男の子は、襟首を捕まれて引きずられ、地面に押さえつけられた後、乱暴に服を脱がされはじめた。
 
「ちょっとやめなさいよ!」
 
キャンディは駆け寄って、男たちに怒鳴る。
 
 
「た、助けて・・・。痛いよ。僕はなんにも悪いことはしてないんだ、信じて。」
 
地面に伏せられた小さな黒人の男の子が、すがるような目でキャンディを見上げる。
 
5歳か6歳くらい?ポニーの家のトムと同じくらいだわ。
 
 
通りを歩いていた人々が、騒ぎに気付き、だんだんと集まってくる。
「何があったのか知らないけど、こんな小さな子供に大の大人がよってたかってそんな乱暴なことをするのは許さないわ。」
 
キャンディが仁王立ちになって、男たちにはっきりと告げるとそれにかぶせるようにキャンディの後ろで声がした。
 
「あなたには関係ないでしょう?何も事情を知らないくせに。」
 
声のした方を振り返ると、あきらかに上流階級のマダムとわかる着飾った年配の女性。黒人の女性を従者に従え、キャンディを威圧的に見つめている。
 
「悪いことは言わないわ。余計なことに口を挟まず、おとなしく立ち去りなさい、お嬢さん。」
 
「いやよ。その子は渡さない。あなたたち、この子にひどいことをするんでしょ。」
 
「そうだ!渡さないで。殺されちゃう。」
 
「恥をかかせないでちょうだい。これ以上騒いでその子を庇うなら、あなたも同罪よ。」
 
「同罪って何?こんな小さな子供にそんなことをするなら、警察を呼ぶわ。」
 
 
 
 
キャンディが叫ぶが、マダムは取り合わない。ふたりの男たちに目で合図を送り、男の子を引きずって人目のないところへ移動しようとする。
 
「やめてってば!!」
 
キャンディはこうなったら腕づくで、その男たちから黒人の男の子を引き剥がそうと、男の腕に飛び付いた。
 
その瞬間__。
 
人混みの中から、爆竹らしきものが投げ込まれ、マダムの近くでパンパンと大きな音がして、爆竹がくるくるとはぜる。
 
きゃーーーーー!!!
 
マダムと従者の黒人女性が悲鳴をあげる。それを聞いて、黒人の男の子を押さえつけていたふたりの男たちが、素早くマダムたちに駆け寄った。
 
「今だ!ねえちゃん、こっち!」
 
自由になった黒人の男の子が叫び、人混みをかき分けて走りはじめた。キャンディもすぐにその子の後を追う。
 
なんで自分まで走らなければならないのか、と頭の隅でチラッと考えたが、迷いを振り切り、キャンディは男の子の後を追いかける。
 
彼は、人混みを抜けると露店が並んでいる細い路地をいくつも抜け、右や左に曲がり走っていく。20分ほど走っただろうか。街の風景は、キャンディの知らない荒れ果てたものに変わっていた。
 
通りにはゴミがあふれ、何かが腐ったような匂いが立ち込めている。
 
通りを行くのは黒人やヒスパニックたちばかりだ。
 
こんなところが、シカゴにあったなんて。
 
そう言えばアルバートさんから、ダウンタウンへは立ち入らないようにと言われてたっけ。ここがダウンタウンなんだろうか?
 
キャンディは自分の世界が狭かったのだと改めて驚いた。
 
やがて、男の子は、古い茶色のビルの前までくると急にスピードを緩め、油断なく周囲を確かめた後、追っ手の姿がないことを確かめると素早くビルの中に吸い込まれるように入っていった。
 
慌ててキャンディも彼を追って中に入る。
 
その中は__。
ガランとした廃墟のようなビルで、壊れた機械らしきものが散らばっている。中に入ったはずの黒人の男の子もいない。
 
ボロボロと崩れかけた壁に、ペンキで何か知らない文字が書かれている。
 
あの子はどこに行ったの?これは、何語?
 
キャンディがそんなことを考えていると背中にトン、と硬い何かが当たり、
すぐ後ろで低い声がした。
 
 
永遠のジュリエットvol.15〈キャンディキャンディ二次小説〉
『ホールドアップ』
低くかすれた男の声が、薄いカミソリの刃先のようにぞっとする感じがして、キャンディはごく...
 
いつも読んでくださってありがとうございます💕
 
										
									
									 
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