
レイクウッドからの帰りの汽車は、夕暮れの中を走っていた。窓の外には、柔らかな茜色の光に包まれた草原が流れていく。けれど、その美しさは今のキャンディの心には何ひとつ届かなかった。
膝の上でぎゅっと握りしめた両手が冷たい。さっきから、胸の奥がざわざわと落ち着かず、息をするたびに、何かがひっかかるような感覚が続いていた。
……聞いてしまった。
ただ、それだけのことなのに、それだけで世界の見え方か変わってしまった。アンソニーの薔薇園。スイートキャンディ。そこで偶然耳にしたあの少年と母親の会話。
「ウィリアムと呼ばないといけないんだったわね」
その名前が出た瞬間、キャンディの足は止まっていた。まるで時間だけがそこに置き去りにされたみたいに。
ウィリアム・アルバート・アードレー。
アルバートさんの名前をあんなにも自然に、家族のように呼ぶなんて。
(……どうして?)
問いかけても、答えは返ってこない。
キャンディの耳に残っているのは、母親の穏やかな声と、少年の無邪気な笑い声だけ。
「アルバートは風の向くまま……」
それ以上は聞かなかった。
聞けなかった。
汽車の窓に映る顔は、いつもよりずっと青白く見えた。目の奥が少し痛む。
(アルバートさんに……家族がいるかもしれない)
そう思った瞬間、胸の奥がぎゅっと締め付けられた。アルバートさんは、誰よりも誠実で、誰よりも優しくて、キャンディをひとりの人間として大切に扱ってくれた人。アルバートさんに幸せな家族がいたなら喜ぶべきだとわかっている。
それなのに。
(どうしてこんなに苦しいの)
心の奥には、いつだってテリィがいる。いつまでも、消えることはない想い。
それでも……。
アルバートさんはかけがえのない大切な人だった。静かに寄り添ってくれて、何も求めず、ただ支えてくれる存在。
でももし“私の知らない家族”がいるのだとしたら。
キャンディは、そっと目を閉じた。薔薇の香りがまだ鼻の奥に残っている気がする。
シカゴを経由して、レイクウッドからの長い列車の旅が終わり、駅に降りて馬車に乗り込むと20分ほどでポニーの家に着く。

馬車のドアを開けると、ポニーの丘から吹く少し冷たい空気が胸に流れ込んできた。その大好きな空気を吸い込んだ瞬間、キャンディの中で張りつめていた何かが、少しだけ緩んだ。
ポニー先生もレイン先生もすでに自室に引き上げているだろうと、キャンディは持っていた鍵でそっとポニーの家の玄関の扉を開ける。
その時。
「……キャンディ?」
聞き慣れた声にキャンディは、はっと顔を上げた。ぼんやりと浮かぶ居間の明かりの中にいたのはアニーだった。ソファの端に腰をかけ、毛布を膝にかけている。どうやら起きて待っていたらしい。
「お帰りなさい。遅かったのね」
アニーは月に1度くらいの割合でポニーの家に泊まりに来るのだが、それはいつも突然だった。
「……よかった。アニーがいて」
キャンディは力が抜けたように小さく息を吐いた。
「何かあった?キャンディ、顔色が良くないわ」
アニーは心配そうに眉を寄せた。その瞳の優しさが、キャンディの張りつめた糸をほどく。キャンディは微かに笑おうとして失敗した。
「……アニー」
アニーはキャンディの側へ来ると手を取って、ソファに座らせる。そしてキッチンへ行き、湯気のたつマグカップを持って戻ってきた。

「さぁ、キャンディ。ココアよ、温まるわ」
アニーもカップを手に隣に腰をおろす。
「さあ、話して。いったい何があったの?」
キャンディはカップを包み込む。温かいはずなのに指先が冷たくて、自分の身体が遠い。
「レイクウッドに……行ったの」
アニーのまつ毛がぴくりと揺れる。
「アンソニーの薔薇園に……?」
キャンディは頷いた。頷くと胸の中の棘が動く。
「薔薇がね、すごく綺麗だったわ。満開で……昔みたいに。それで……」
言葉が続かない。喉がカラカラに渇く。アニーはカップを持っていない方の手で、キャンディの手をそっと握った。
「……うん。それで?」
そのアニーのうんが優しすぎてキャンディは泣きそうになる。
「男の子が来たの。4歳か5歳くらいの……。金髪で、青い目で……。薔薇の妖精だって、私のことを言ったの」
アニーがふっと微笑む。
「キャンディらしい出会いね」
その笑顔が次の瞬間消えることをキャンディは知っていた。だから早く言わなければならない。
「その子……バートっていうの」
キャンディは紅茶の表面に映る自分の影を見つめた。そこにいるのは自分なのに、自分じゃないみたいだった。
「……その子のママも来たの。ブルネットで小柄で……親しみやすい人だった」
『親しみやすい人だった』ここまではまだ普通の話だ。けれど次の一言で世界は変わる。キャンディは息を吸った。そして吐きながら言った。
「その子がパパの話をしたの。シカゴの大きなお家にいるって。それで……ママがね」
アニーは瞬きもせずに聞いている。キャンディはかすれる声で、どうにか次の言葉を口にした。
「……“アルバートは、風の向くまま気の向くままだから”って」
言った瞬間、部屋の空気が止まった。時計の針の音だけが、やけに大きい。アニーの瞳が大きく見開かれる。
「……アルバート……って?」
キャンディは頷いた。頷くしかなかった。
「……私、聞き間違いだと思いたかった。でもその子はアルバートさんのことを“パパ”って……」
アニーの唇がわずかに震える。
「……まさか」
アニーはしばらく何も言えなかった。ただキャンディの手を握ったまま固くなっている。
キャンディはやっとアニーの顔を見た。
「アニー、私、どうしたらいいの……?」
アニーの目に涙がたまった。そして、小さく息を吸って、震える声で言った。
「……キャンディ。それ……本当なら……アルバートさんは……」
言葉が最後まで続かない。キャンディはぽつりと答えた。
「ええ。……私もそう思ったの」
そして、胸の奥にしまっていた最後の一片をそっと置く。
「……私ね、アルバートさんのこと、ずっと家族だと思ってきたの。大切で、あったかくて……帰れる場所みたいで」
キャンディは笑おうとした。けれど、涙が先に溢れた。
「でもアルバートさんには……もう帰れる場所があったのかもしれない」
アニーはぎゅっとキャンディを抱きしめた。キャンディはその腕の中で、初めて声を漏らして泣いた。薔薇園で落ちなかった涙がこの部屋で、ようやく音を立ててほどけていく。アニーはキャンディを抱きしめたまま、しばらく動かなかった。
キャンディの肩に伝わる体温が微かに震えている。
「……キャンディ」
その声は、いつもより低かった。アニーは唇を噛みしめ、ゆっくりと身体を離した。
「……ひどいわ」
その一言には、怒りも、悔しさも、悲しさも混じっていた。
「アルバートさんがキャンディに何も言わないって……そんな大事なことを」
アニーの拳が膝の上でぎゅっと握られる。
「……でも」
アニーはそこで言葉を止めた。
「もしかしたら、……何か事情があるのかもしれないわ」
少し沈黙が落ちる。
「……ねえ、キャンディ」
アニーは意を決したように言った。
「ちゃんと……アルバートさんに確かめた方がいいわ」
キャンディは驚いてアニーを見た。
「……会って尋ねるべき?」
「ええ」
アニーは力強く頷く。
「キャンディが見たことが真実なのか、それとも途中の1場面なのか」
キャンディは胸に手を当てた。そこでは、不安と恐れとそれでも消えない想いが、絡み合っていた。
(でも、アニーの言うとおりだわ)
尋ねなくては。アルバートさんに。
キャンディは、胸の棘を抜いた後、真っ赤な血がどくどくと流れ出る場面が頭に浮かんだが、それでも尋ねるべきだとわかっていた。
「アニー、アルバートさんに会うわ」

アードレー家本宅のアルバートの部屋は、光に満ちていた。高い天井、磨き込まれた机、壁際の本棚。すべてが整いすぎていて、いつ来てもここは少しだけ、現実から離れた場所のように感じられる。
キャンディは、小さく息を吸った。
「……急に来て、ごめんなさい」
そう言ってから部屋に足を踏み入れる。アルバートは書類から顔を上げ、すぐに立ち上がった。
「いいんだよ、キャンディ。用件はなんだい?」
いつもの柔らかな声。それだけで、胸の奥が少し緩むのをキャンディは感じていた。
(……やっぱり安心する)
それが余計に苦しい。
「キャンディ、顔色が良くないな。何かあったのかい?」
アルバートは自然な感じで尋ねる。キャンディは隠すつもりはなかった。けれど、きり出す勇気が、すぐには出ない。キャンディは、窓辺に差す光から視線を外し、床に落ちた影を見つめた。
「……アンソニーの薔薇園に行ったの」
アルバートは黙って頷く。
「薔薇が満開で……。それで……」
そこから先の言葉が喉につかえる。
(どう言えばいいの?)
「……小さな男の子に会ったの」
キャンディはようやく続けた。
「4歳か、5歳くらいの……」
アルバートの指が、ほんのわずかに止まる。
「その子……バートって言ったの」
名前を出した瞬間、アルバートの瞳が微かに揺れた。それをキャンディは見逃さなかった。
「……お母さんも一緒だったわ。とても感じのいい人だった。優しくて……」
キャンディは、じっとアルバートを見つめる。空気が少しだけ張りつめる。
「それから……」
キャンディが指先をきゅっと握る。
「バートが……“パパ”って」
キャンディはその言葉を口にした瞬間、胸の奥が軋んだ。
「私、聞き間違いだと思いたかった。でも……どうしても、気になって……」
言葉が途切れる。
「……もしかしたらアルバートさんには、別の家族がいるのかもしれないって。そう思ったら、落ち着かなくなったの」
キャンディは唇を噛んだ。アルバートはしばらく何も言わなかった。その沈黙の中で、彼の胸には、想いが幾重にも重なっていた。
(……落ち着かない?それは……キャンディは、僕を失うかもしれないと思ったんだ!)
その事実が、アルバートの胸の奥を温かく、そして痛くした。アルバートはゆっくりと息を吐く。
「……キャンディ」
その声は、いつもより低く、柔らかい。
「正直に言うよ。君がそんなふうに考えてくれたこと」
アルバートは微かに笑った。どこか照れた、けれど、ごまかさない笑み。
「……嬉しかった」
キャンディは、思わず顔を上げる。
「……え?」
「僕に、別の家族がいるかもしれないって、それを心配してくれたんだろう?」
アルバートの胸の内には、確かな感情があった。それは保護者としての安堵ではない。“家族”としての温もりとも、少し違う。
(……失いたくない人として見てくれている)
その事実が、胸を満たしていく。
「君は、何も言わずにいることもできた。でもこうして来て、ちゃんと確かめようとした」
アルバートは、視線を落とし、静かに続ける。
「それは、僕を信じてくれているってこと……そして」
一拍おいて。
「失いたくないと思ってくれた、ということだろう?」
キャンディの胸が、きゅっと締めつけられる。
(……そう。失いたくない)
それは紛れもない本心だった。アルバートさんは、安心できる人。信頼できる人。孤児だった私を、養女として迎え、守ってくれた大切な人。
(でも……)
キャンディは、自分の心の奥をそっと見つめる。
そこには、もうひとりの人がいる。遠くにいて、近づけなくて、それでもどうしても消えない。……テリィ。
(……どちらも本当)
その複雑さを、キャンディ自身も、まだ言葉にできない。アルバートは、口を開こうとした。
「……ちゃんと話そう。レイクウッドで見たことの真相を」
アルバートがそう口にした時、コンコンと控えめなノックの音がする。次の瞬間、扉が開いた。
「アルバート様」
いつもは冷静なクルーズが、顔色を変えて立っている。
「奥さまが……」
アルバートは即座に立ち上がった。
「大おばさまが?」
「ご自室で……突然……倒れられ……」
キャンディの胸が、どくんと鳴る。
「……意識は?」
クルーズがキャンディを見る。
「今のところ、反応は……」
「主治医の先生は?」
「……それが……シモンズ先生はあいにく学会でアトランタに行かれていて……お戻りは明日の予定と伺っております」
「わかった。とにかく先生に連絡を取ってみてくれ」
そう指示して、次に迷わずキャンディを見る。そこには、信頼があった。家族としてではなく、同じ場所に立つ人間としての信頼。
「キャンディも来てくれ」
「ええ」
短く、確かに頷く。さっきまで胸を満たしていた不安は、静かに後ろへ退いていた。今ふたりの前にあるのは、ただひとつ。守るべき命。ふたりにとって大切な大おばさま。キャンディとアルバートは並んで部屋を出た。廊下を進む足音が、重なっていく。言葉はない。
けれど、その沈黙は、迷いの沈黙ではなかった。ふたりが覚悟を共有した沈黙だった。

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