
「遅かったのね、テリィ」
真夜中をかなり過ぎた頃。
チャリティーパーティーから戻ったテリュースがマーロウ邸のガレージに車を停め、玄関の鍵を開けるとエントランスから続く薄暗い廊下に車椅子のスザナの姿があった。慌てて車椅子に乗り移ったのか、夜着のスカートがめくれている。
「まだ起きていたのか?」
テリュースは驚いて声をかけた。
スザナの体調を考え、最近では夜の公演がある時はいつも、自分を待たずに早めに休むようにと伝えていて、たいてい彼女はその通りにテリュースが帰宅する頃にはベッドに入っているのだった。今夜もパーティーで遅くなることは伝えていたから、当然すでに就寝していると思っていたのだ。
「あなたの帰りが遅いので、心配していたの……」
掠れた声で言うと、ゆっくりと車椅子を操ってテリュースの側に来て探るようにじっと見上げた。
「あら、お花の匂いがするわ。スミレ?いいえ、水仙の香りね。誰かのコロンかしら?」
「ああ、たぶん今夜のパーティーにいた誰かの移り香だろう」
咄嗟にそう口にしたテリュースだが、その香りが母の物であることは分かっていた。
「すまない。すぐにシャワーを浴びることにするよ」

今夜、エレノアの身体を支えた時にふわりと鼻をくすぐったのは幼い頃の記憶に残る懐かしいスミレと水仙の香りだった。だが、その香りの記憶は今夜エレノアに会うまで彼自身も忘れていた。セント・ポール学院の裏山に寝転がって、スミレや水仙の匂いを嗅くことが好きだったのは、幼い日の想い出の中にある母の匂いであったからなのだと、今夜理解したテリュースだった。
「いいえ、かまわなくてよ。素敵な香りだわ」
スザナは微笑む。だが、その微笑みの奥にチラチラとくすぶる暗い炎のような不安。
「今夜はメイ先生もパーティーにいらしてたのでしょう?あなたが彼女を送って行ったの?」
「いや……。今夜のパーティーにメイ先生は招待されていない。遅くなったのは、本を取りにアパートに立ち寄ったからなんだ」
テリュースは手にしていたハムレットのクォート1をほらと言うように見せた。
「ハムレットを読みなおそうと思ってね」
「そうだったの……」
スザナは安堵したように吐息をもらした。
「テリィ、もう今は、ここがあなたの自宅なのよ。アパートにある荷物をすべてこちらに運んでらしたらいいのに」
芝居の稽古のために必要だからという口実で、テリュースはアパートを引き払っていなかった。
「ああ、そうだな。そのうちに」
いつものようにテリュースは曖昧に答えた。そして、スザナに半分嘘をついたことを心苦しく感じながらも、エレノアから渡された宝石箱をその足でアパートに置きに行ったのは正解だったと心の中で思うのだった。
『今ここで、見慣れぬ宝石箱を手にしていたら、色々と尋ねられて面倒なことになるところだった』
スザナに、エレノアから譲られた宝石箱のことを話す気はないし、ましてやそれを贈る気はさらさらなかった。エレノアもテリュースも当たり前のように、それはキャンディに渡すべき物だと思っていたのだ。
「心配をかけてすまなかった。今夜はもう遅い。部屋まで送るよ」
テリュースは心の内を気取られないように、いつものように穏やかに言って、車椅子の後ろにまわりこんだ。そして、クォート1を脇に挟むと、車椅子を押してゆっくりと薄暗い廊下を進む。広間や食堂、マーロウ夫妻の寝室の前を通りすぎるとその奥にスザナの寝室がある。
マーロウ邸はスザナが車椅子生活になってから彼女のために大規模に改築され、1階はカーペットからオークのヘリンボーンや大理石に張り替えられていた。2階にあったスザナと両親の寝室は1階に移され、生活のすべてが1階だけで事足りるようになっているのだが、テリュースだけは2階の客間を使用している。
それは、マーロウ邸に入るように執拗にテリュースに迫ったマーロウ夫人だが、いざテリュースがやってくると、今度は結婚前の男女が同じ家の同じ階で生活するのは世間体が悪いという身勝手な言い分で、テリュースに2階の客間をあてがったからだった。
「ええ、そうね。もう休むことにするわ。でも少しだけでいいからお話してくださる?」
肩越しに、スザナは車椅子を押すテリュースに甘えるように懇願する。
「ああ。君の身体の負担にならない範囲でね」
「それなら大丈夫よ。ドクターが新しく処方して下さったお薬が良く効いて、このところ調子がいいの。食欲もあるのよ」
「それは何よりだ」
ふわりと微笑むテリュース。そして、スザナの寝室のドアを開け、ベッドサイドにくると彼女を抱き抱え、そっとベッドの上におろしてやる。
いつもは身体の線を隠せるような洋服を選んでいて外見では分かりにくいが、薄い夜着を通して抱き上げるとスザナがまたぐんと軽くなっていることにテリュースは気づいた。
マーロウ夫妻はありとあらゆる高名な医師を頼り、スザナに様々な新しい薬を試してみたが、病状は良くなるようには見えなかった。そして、今では頼るところすら尽きて最初にスザナが運び込まれた聖マリア総合病院に戻り、診察を受けていた。
「ねえ、テリィ。ほら覚えている?私たちの隠れ家の近くにあった農家で購入したレンゲの蜂蜜のこと」
「ああ、よく覚えている」
会話をしながらも、テリュースは重ねたピロークッションを整え、そこへスザナの上半身を横たえさすとふわりと布団をかけた。そして、自らはいつもベッドサイドに置いてある椅子に腰をかけた。
「あの蜂蜜ね、とっても美味しくてもう半分も食べてしまったのよ」
そんなテリュースを見上げて、スザナは得意げに言う。
「それはよかった。それなら、またあの蜂蜜を手に入れておくことにするよ」
「あら、テリィ。あそこに蜂蜜を買いに行くのなら、私も一緒に行きたいわ。あの隠れ家に行って、あなたとまたゆっくり過ごしたいの」
スザナが人目を気にせず過ごせるようにと購入した隠れ家は、マーロウ邸から少し遠く、今の彼女の体力では行くことは困難なのだが、テリュースは敢えてそれを口にすることはなかった。
「ああ、また行こう」
「本当は今すぐにでも行きたいくらいだわ。でも、テリィ、しばらくおやすみをとるのは無理でしょう?いよいよ『ハムレット』のオーディションが始まると聞いたわ」
ストラスフォード劇団は次回の演目を『ハムレット』に決定していて、すでに各役のオーディション日程も劇団員たちに周知されていた。
「みんなピリピリしているのではなくて?」
スザナは懐かしそうに目を細める。ストラスフォード劇団の団員たちは、仲間でもあり、また役をめぐって争うライバルでもあった。
「ああ。そんな感じだ。ストラスフォード劇団久々の『ハムレット』だから、誰もがギアを入れ直している感じだな」
「本当に、『ハムレット』は久しぶりよね」
前回のストラスフォード劇団の『ハムレット』は、主演のロバート・ハサウェイの演技が歴史に残る名演で、その後何年も再演の声が上がらなかったことは有名だった。
「ああ。地方公演を除けば、10年ぶりだそうだ」
「私、あなたならきっと、ロバート先生以上に素晴らしいハムレットを演じられると信じているわ」
スザナは団長ロバートのことをずっと『先生』と呼んでいて、それは彼女が研修生の時から変わっていない。
「ね、そうでしょ?」
スザナはその瞳を真っ直ぐにテリュースに注ぐ。
「……だといいが。そのためにはまず、オーディションでハムレット役を射止めなければ」
「あなたならできるわ」
側でみているスザナは、誰よりもテリュースの俳優としての才能をわかっていたし、このところ、彼の演技に一層深みが増しているという噂もよく耳にしていた。
「全力を尽くすよ」
そう言うと、テリュースは声のトーンを和らげて微笑んだ。
「そう言えば、昨日ロバート団長に会って、君の戯曲がいよいよオフブロードウェイで上演される予定だと聞いたよ」
「もう、ロバート先生ったら。日程が決まるまでテリィには秘密にしてねってお願いしたのに、おしゃべりだわ」
口ではそう言いながらも、まんざらでもなさそうなスザナ。
「いや、ロバート団長は、君と約束したからと、詳しいことは何も教えてくれなかったんだ」
「ふふふっ。そうなの?」
「ああ。でも君の戯曲の公演初日には、俺が劇場に行けるようにスケジュールを調整すると約束してくれたよ」
「うれしいわ。あなたがいらしてくれるなんて」
満面の笑みになったスザナの頬に赤みがさす。
「俺を招待してくれるんだろう?」
「もちろん!1番いい席を用意しておくわ。あなたに見て欲しいの。とっても素敵な物語だから」
「どんな物語なのか楽しみだ」
そう言って、話を切り上げるようにテリュースが椅子から立ち上がる。
「さあ、もうそろそろ休もう」
テリュースを見上げるスザナ。
「………テリィ、お願いがあるの」
吐息と同じくらいの小さな囁き。
「なんだ?」
「おやすみの……キスをして欲しいの」
婚約式以来、ごくたまにスザナがそうねだることがあったが、それは彼女の精神が不安定な時であることにテリュースも気づいていた。
テリュースは言われたまま、そっとスザナの額にキスを落とす。かすめるようなキスとも言えないキス。
と、突然。
「………違うわ!」
おぼろげな夜の空気を引き裂く鋭い声。
テリュースは一瞬息を飲んだ。
スザナの視線がまっすぐにテリュースを射抜く。
「テリィ、私たち婚約者同士なのよね?なのに……」
テリュースもその意味は十分にわかっていた。
「こんなの、愛のあるキスじゃないわ」
「・・・・・・」
「私のこと、どう思っているの?あなたにとって迷惑な婚約者?いない方がいい存在?」
「………スザナ」
「わかっているのよ。あなたは今、何よりも俳優として頑張ることが一番大切な時期なんだって。でもあなたの世界に私は必要ないんだと思えて………」
「そんなことはない。俺は……」
「だったらテリィ、今、ちゃんと言葉で言って!」
テリュースの言葉を遮るスザナ。
「愛していると。私だけを愛しているんだと言ってちょうだい!」
肩で大きく息をし、挑むようにテリュースを見つめる榛色の瞳。
「すまない、スザナ。そんな風に思わせてしまったなら………」
テリュースの声はどこか力がなかった。
「やめて!謝って欲しいわけじゃないの。ただ私は……、私は………」
それだけ言うとスザナはハッとしたように瞳を陰らせた。大粒の涙がポロポロと白い頬を伝う。

「…………ごめんなさい。あなたが私を大切にしてくれているのはわかっているわ。それ以上求めてはいけないことも」
そこまで言うと、両手で顔を覆い、泣き崩れる。テリュースはかがみ込んでスザナの肩を優しく抱きしめた。
「君のことを愛している。ずっと側にいる」
「ごめんなさい、テリィ。こんなことを言うつもりじゃなかったの」
「わかっている……。わかっているから大丈夫だ。心配しなくていい」
テリュースの手がスザナの背中を優しくとんとんと打つと、抱きしめてくれたテリュースの腕にすがるように手を巻きつけるスザナ。
「ごめんなさい………、テリィ……。ごめんなさい」
痩せた身体が小さく震えている。彼女の苦しみがテリュースに伝わってくる。
そして、スザナの苦しみはテリュースの苦しみとなる。だが、テリュースはそれを取り除くすべを知らなかった。
そうして、かなり長いこと小さな嗚咽を漏らしていたスザナは、やがてテリュースの腕の中で寝息をたて始めた。テリュースは、そっとスザナをベッドに横たえさせ、枕元のランプの灯りだけを残して部屋を出る。

夜に包まれた静寂な薄暗い廊下。
どうするべきなのか、わからない心。
そこには、自分の不実さを嘲る声がこだましているように思えた。
『卑怯者のテリュース!!』
『愛しているだと?二枚舌が!』
『病気の彼女が、この世から居なくなるまでそうやって息を潜めて待っているつもりか?彼女を愛しているフリをしながら?』
テリュースは、これから先、どんなに近くにいてもキャンディ以外の女性を愛することなどできないと、わかりすぎるくらいわかっていた。
だが、イギリスから戻ってきてから、自分の中で生まれた自らを嘲る言葉に対する明確な答えが出ぬまま、それでもスザナとの日々を過ごすしかなかった。
「俺はどうしたらいいんだ」
何を言っても、どんな言葉をかけても、スザナにかける言葉のひとつひとつが空々しく感じてしまう。その言葉は空虚で中身のないものだと誰よりもテリュース自身がわかっていたから。
スザナ……。
俺がふたりいたら、叶えてやれたものを……。

テリュースが重い足取りで、2階の自室に向かおうと階段を登りかけた時。
ドアが開く音がして、後ろから声をかけられた。
「テリュース。少しいいかしら?話があるの」
振り返ると、マーロウ夫人が能面のような表情で立っていた。
「何か?」
「あなた、あの子が今どんな状況か、わかっているの?」
マーロウ夫人の口調は氷のように冷たかった。
「……ええ。わかっています」
ここ最近は、お互いの距離の取り方にも慣れて、マーロウ夫人がテリュースに苦情を言ってくることも少なくなっていたのだが、今夜は違った。
「いいえ。全然わかっていないじゃない。今夜もこんなに遅くなって。どれだけあの子が心配していたか。あなたにもそれはわかるでしょう?」
「・・・・・・」
「ほら、またダンマリだわ。あなた、都合が悪くなるといつもダンマリを決め込むのね」
はあ、と嫌みたっぷりにマーロウ夫人がため息をつく。
「今夜はどこかのパーティーに行ったそうじゃない。あの子から聞いたわよ。そういうパーティーにあなたが出席するのをスザナが嫌がっているのがわからないの?」
前副大統領の指名でパーティーに出席せざるをえなかったのだと言ったところで納得はしないだろう。マーロウ夫人は、テリュースの俳優としての立場など、少しも考えていないようだった。
「あなたはあの子の婚約者なのよ。もっと一緒に過ごす時間を作ってやってちょうだい。できるだけ、くだらないスケジュールは入れないで欲しいのよ。今日のパーティーのような」
「………わかりました」
テリュースは、それだけ言うとマーロウ夫人に背を向け、階段を上がりはじめる。その後ろ姿に、慌ててマーロウ夫人が声をかけた。
「待って、テリュース。私は、ただあなたにお願いしたいだけなの。もっとあの子といる時間を増やして欲しいと。スザナに、もっと幸せだと感じさせてやって欲しいのよ」
テリュースの無反応に、今度は哀願する口調になるマーロウ夫人。
「スザナはあなたの前では気丈に振る舞っているかもしれないけれど、あなたがいない時は精神的に不安定になるの。泣きだしたり、怒り出したり……。あの子にとって、あなただけが、生きる支えなの。演技でもいいから、もっとあの子を愛しているように振る舞ってちょうだい。俳優なんだからできるでしょう?」
その言葉に、唇を噛み、グッとこぶしを握りしめるテリュース。
そんなことぐらい、わかっている。わかっていてもそうすることがまた逆に彼女を苦しめているようにも感じるのだ。
スザナは俺の気持ちなどお見通しなのかもしれない。そんなことを思う時もあった。
「できるだけのことはします」
「お願いよ、テリュース。お願いだから」
背中に、泥のようにべったりとまとわりつくマーロウ夫人の言葉を振り切るように部屋に戻ってテリュースはふぅと大きく息を吐き出した。

シカゴ港が閉鎖されてからレオン・ビアンカリエリの拠点は、ニューヨーク港にほど近い事務所兼倉庫に移っていた。
ここでは、シカゴにいた時のようにキャンディの顔を見ることができないのは残念だったが、ニューヨークでは仕事以外にもするべきことがあって、レオンはそれなりに気に入っていた。それが、テリュース・グレアムに関する調査だ。
ある日の午後。
椅子を斜めに倒し、机の上に足を上げた姿勢で、部下からの報告書類を読んでいたレオンは、読み終えると、ガバっと起き上がり、不敵な笑みを浮かべた。
「さすがだな、トーマス。これでテリュース・グレアムとスザナ・マーロウの関係はだいたい理解できたぜ」
その言葉に、緊張した面持ちで、じっと書類を読むレオンを見つめていたトーマスが相好を崩した。
「へへっ。ボスにそう言ってもらえるんなら苦労したかいがあるってもんでさ」
レオン・ビアンカリエリが武器商人として、今の地位を築いたのは、スルリと人の懐に入り込む人たらしの才能と、組織的な情報収集能力の高さがあるからだった。今回も裏社会のツテを頼り、かなり入念に調べ上げることができたのだった。
「つまり、だ。舞台事故が起こるまでは、テリュース・グレアムとスザナ・マーロウは恋人同士ではなかったということだな?」
「ええ。どうやらそうらしいです。ヤツが以前から借りているアパートの大家を懐柔して聞いたんで、間違いありやせん。その大家が言うには、スザナ・マーロウがアパートにやって来たのを何度か見かけたらしいんですが、グレアムは迷惑そうにしていたと言っておりやした」
「フリか、かっこつけてじゃねえのか?」
レオンが肩をすくめる。
「いや俺もそれは思ったんですが、どうやら違うようで。と言うのが、スザナ・マーロウが花やスイーツを持って訪れたこともあったらしいんですが、その時もグレアムは女を放ったらかして、どこかに飛び出して行っちまったらしいんです」
「ほぉ。アパートにあのべっぴんさんがやってきても歓迎しなかったってわけか。俺なら熱く歓迎して、タダでは帰さないがね」
「ええ。そりゃあ、普通の男ならみなそうですぜ。俺もそう思うんで、大家にすっとぼけて何度も聞いてみたんですが、何度聞いてもテリュース・グレアムがスザナ・マーロウと交際していたとは絶対に考えられないと断言しておりやした」
そして、ジャックは注意深く付け加える。
「ただ、ヤツにはひとり、手紙をやりとりしている女がいたそうで、大家がその女から届いた手紙を手渡してやると、珍しく破顔して受け取っていたらしいです」
「その女の名前がここに書いてねえが、なんか聞いてねえのか?」
「すんません、ボス。大家もそれだけは言えねえと手紙の差出人の名前は何度聞いても教えてくれねえんで。締め上げて吐かせてやろうかとも思ったんですが、まぁ、気のいいおばちゃんなんでやめときました。なんなら今からでも?」
「いや、そこまでしなくていい。まぁ、そんなに喜んでるんなら、相手はヤツの女だろうな」
そして、それがキャンディだろう。レオンは胸の中でそう思った。
ではふたりが知り合ったのは?接点は?だが、肝心のそのあたりについては調査書には書かれていなかった。
「つまり、グレアムの女関係はそれだけということだな?」
「ええ、そうです。モテモテだろうに、拍子抜けするほど女関係がクリーンなんで。あと、それ以外にもヤツの周辺をかなり洗ったんですが、エレノア・ベーカーの隠し子だということ以外、父親の情報がさっぱり手に入らねぇんです。父親は、イギリス貴族だとか、アラブの王族だとか囁かれているらしいんですが、過去は何ひとつ追跡できねぇ」
「いや、いい。調査ができねえのは、母親が口が固いのと、ヤツが、それなりの力を持ったかなり上等な生まれ育ちだということだ。そんなら仕方ねえさ。それより、スザナ・マーロウの事故は、ここに書いてある通り、ストラスフォード劇場の照明事故で間違いないんだな?」
「ええ。噂は色々あったようですが、劇団のスタッフを買収して詳しく聞き出したところ、稽古の最中に、テリュース・グレアムの頭上に舞台照明が落下し、スザナ・マーロウがテリュースを庇う形で怪我をしたと言うのが真相らしいです」
「ほぉ……。男が女を庇ったんじゃなくて、女が男を庇ってねぇ……」
レオンが意味ありげに小さく呟く。
「そうらしいです。そんで照明が落ちてきた理由を、ストラスフォード劇団側はろくに調査もせず、照明装置の老朽化ということにしているらしいですぜ」
「まぁ、事故の原因がなんにせよ、スザナ・マーロウがテリュース・グレアムの恩人だと言うのは確かなようだな」
「スザナ・マーロウが庇わなければ、テリュース・グレアムは大ケガをしていたか、悪けりゃ死んでいたかもしれねえと劇団の裏方たちも言っておりやした。咄嗟に庇うなんざぁ、誰にでもできることじゃ、ありやせんぜ」
スザナ・マーロウがテリュース・グレアムに一方的に惚れていたのだろう、レオンは確信した。
「それで結局、グレアムは責任を感じて、女の将来を引き受けたってわけなのか」
「いや………。ある意味そうなんですが、自ら責任を取ったというのはちょっと違うかもしれやせん。と、言うのが、病院でスザナ・マーロウの母親が怒り狂って、グレアムに娘の女優生命を奪った責任をとれと、かなりの剣幕で迫っていたらしいんです」
「照明の落下をグレアムの責任だと?」
「そうみたいですぜ。酷い話だ」
トーマスは大袈裟に顔をしかめた。
「なのに、スザナ・マーロウは自殺未遂をおこした………。なぜだ?」
「どうやら、娘の方は自分が生きているとグレアムの迷惑になると病院の屋上から飛び降りようとしたらしいです。それについても、当時を知っている看護師に直接会って、裏はとれてます」
「なるほど……。母親がグレアムに責任を取れと迫っていたのを知っていたんだな。そしてグレアムが自分を愛してはいないことも知っていた……。だからグレアムを自由にしてやろうと思ったということか……」
マスコミはそのあたりの報道はしておらず、レオンもスザナ・マーロウが自殺未遂を起こしていたと言うのは、寝耳に水だった。
「で、ここに書いてある、その時スザナ・マーロウを助けた見舞客がいたというのも本当なんだな?」
「そうなんでさ、ボス。その見舞客がたまたま病室にいないスザナ・マーロウを探して、屋上にいるところを発見したそうで」
「その見舞客は、劇団の関係者なのか?」
「すんません、ボス。当日の担当だった看護師を全てあたって、劇団関係者ではないことは確認が取れたんですが、その見舞客の詳細は分からずでして。ただ若い金髪の女だったとしか……」
「いや、いい。十分だ。すまなかったな。面倒なことを頼んじまって。納得はできねえが、状況はよーくわかった。お陰でスッキリしたぜ」
レオンはそう礼を言ってトーマスを下がらせると、デスクの上に置いてあるシガレットケースからお気に入りの煙草を取り出し、火をつける。
ゆっくりと肺の奥まで煙草の煙を送り込み、ふぅと天に向けて吐く。そうしないと全身が泡立つような気持ちを抑えられなかったのだ。
スザナ・マーロウの自殺未遂現場にいたのも、絶対にキャンディだ。キャンディス・W・アードレーがなぜかその場にいたに違いない。レオンは確信した。
キャンディとテリュース・グレアム。想い合うふたりが引き裂かれたのは、その『舞台事故』が原因だったのだ。それならテリュースの失踪騒ぎも合点がいく。
全てのピースがピタリと当てはまった感覚にレオンは満足していたが、なぜか胸くそが悪くなる。
自分の責任でもないのに、自らを庇って女優生命を絶たれた女に対して、責任を取る男。その男を思って身を引く恋人。
ケッ!『きれいな世界』すぎて、反吐がでるぜ。
レオンは調査書を思いきり床に投げつけた。


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